弁天町ステーションアート第4弾アーティストの國久真有。身体を軸にして円弧を描く「WIT-WIT」シリーズなどを展開し、近年は公開制作にも力を入れている。今回はアトリエに赴き、インテリアやファッションを学んで絵画に至った経緯や絵を描くことへの想いを聞いた。
Q. 作業はスムーズに進みましたか。
映像制作について何も分からない状態でスタートしましたが、やり始めると想像以上にすんなりできてしまいました。去年の年末にお話をいただいて、年明けには思ったものを作ることができたので嬉しかったです。
使ったのは「DaVinci Resolve」というフリーソフトです。iPadの無料版は使える機能が限定されていて、アナログフィルムを切り貼りするように全て人力でカットし、間にエフェクトを挟んで作っていきました。手間はかかりましたが、積み重ねて作っていくところが絵を描く作業と似ているように感じました。制限があるほうがかえってやりやすかったのかもしれません。
Q. 素敵な響きですが、確かに聞きなれない言葉ではありますね。
だから、公の場で肩書きどうしますかと聞かれたときは、「なんて言ったら分かりやすいですか?」と相談します。画家か美術家かどちらかを書くことが多いですが、意味合いや気持ちの中では画家ですね。まあ、英語にしたらどれも『Artist』なんですけど。
Q. 幼い頃から、絵に興味はありましたか?
疑問に思うことが多かったような気がするんですよね。なんで緑の葉っぱなんだろうみたいな。そういう科学っぽいことや生きていることへの疑問を考える方が多かったかもしれません。
Q. 初めから絵画をされていたのではないのですね。
絵描きになるとは思わなかったです(笑)。
Q. 絵に行きつくまでのことを教えてください。
人生の最初の選択に高校がありました。普通科に行きたくないという思いから大阪市立工芸高等学校インテリアデザイン科を選び、インテリアや建築の空間について勉強しました。 ここで学んだのは、平面から立体を考える、そして敷地や街を考えるということです。 高校卒業後は服を勉強したいと思い、ロンドンへ。ファッションでは、例えば赤い服の人がポツンといるだけで、景色や空間、街自体が変わるということを学びました。 でもペインティング(=絵画)は、もっといろんな次元を作れるなと気づいたんです。奥行感も昔の人が遠近法を生み出したように、イメージの中での空間のようなものがあるとすると、平面にはどんな空間でも入れることができる。メディウム(媒体)的なものはシンプルになっていくけれど、空間を作ることに関してはすごく広がっていっていると感じ、腑に落ちました。自分の中では絵画が一番自由だと思っています。絵画以外の立体や写真などは「ドローイング」として置いておこうと考えています。
Q. ロンドンではどんな収穫がありましたか。
その頃好きだったのがマーク・イーリーさんと岸本若子さんの二人のデザイナーが一緒にやっているイーリーキシモトというブランドでした。お二人はセントマーティンの先生と生徒だった関係からパートナーとして仕事をしていて、岸本さんが教えているセントマーティンに進むことを選びました。 イギリスではファッションを学ぶ前に基礎コースを履修します。そこでファインアートと出会ってしまいました。ドローイングから始めるのですが、鉛筆を削るところから始まる日本のデッサンとは違い、イギリスでは何でも使っていいよという感じなんです。デッサンにも何種類か授業があり、ファッションドローイングでは鉛筆・白黒は一切使わず、ペンで描きます。そこで、「日本だけじゃないんだな」という感覚が芽生えました。
Q. 世界は広い、ということでしょうか。
いろんな国の人がいるし、年齢も様々でした。そして、「自分が思うことをしないといけない!」と感じました。隣の人がやっているから安心ではないのだと。そのことで私は楽になりました。日本では人と一緒じゃないといけないし、比べられることが多かった。でも、イギリスではそれぞれで良いんだと自由を感じ、学校でも評価が良かったんです。自信がつきました。
Q. 興味はデザインからファインアート(純粋芸術)へ。帰国されて、今度は神戸の大学に進まれました。最初は立体を作っていらっしゃったのですね。
母が同じ学校法人で働いているため授業料が半額になるからと神戸芸術工科大学を勧められ、アトリエ代わりに行こうかという感じで造形表現学科に入りました。
私はそれまで絵画に対して「一人で家でやってたらいいやん」と思っていたタイプでした。生活に一番必要のないものは絵画だと思っていたぐらいです。
Q. どのような心境の変化があったのでしょうか。
大学では絵画の授業があり、絵を描かないといけなくなりました。でも、何を描けばいいかわからない。だから、絵の具をずらっと並べて、「子供の絵っていいって言うよね」という感じでバーって描いていきました。
そうすると、めちゃくちゃアドレナリンが出たんです。初めての経験でした。この気持ちよさ、この感覚は何だろう!と。「ああ、大学生活の間ぐらい、こういう感覚を追ってみるのもいいかもしれない」と思いました。 大学で絵画の授業を担当されていたC.A.P.(芸術と計画会議)の代表・杉山知子先生が、何でもやりなさいと見守ってくれて、ほかのみんながキャンバスに描いている中、私は裏庭でずっと石に絵を描いていました。大きいベニヤ板を二十八枚ぐらい並べて描いたりもしましたね。体力の続く限りずっと描いていました。
大学に入るまで学んでいた設計やデザインは、外枠や範囲を決める建ぺい率等のルール、雰囲気などの目標に向かってどういう形を作っていくかというものでした。 でも、石に描くときは最初から何個作ろうとは思わない。限界が来たらやめるという状態でした。全部が感覚任せです。何かを作ってからやっと客観的に見ることができて、これ何なんだろう?となるんです。
「ずっと絵を描いていきたい」と思い始めた頃、中島麦さんのブログを読みだしました。プロの絵描きとしてやっていく上でどんな活動をしてるか、収入等というよりも、オープンアトリエや公開ペインティング、ファッションブランドとのコラボなどいわゆる社会とのつながりについて学びました。
でもまだその頃は、今のような線の絵を描いていなくて、まず作品=強いものがないといけないと思いました。
チューリップ作品展示風景
SEASIDE STUDIO CASOでの個展風景 画像提供:SEASIDE STUDIO CASO 2015年
Q. 描かずにはいられないというエネルギーを感じます。
でも、どこかで見たことのある絵だなと思っていました。
兵庫県の大学だったので元永定正さんなど具体美術の作家の話を聞く機会が多くあり、私は堀尾貞治さんに注目していました。年間100回も展示をしている変なおじいさんがいる。なぜこの人は、仕事をしながらずっと続けているのだろうと思い、堀尾さんのインタビュー記事を読んだところ、空気を描くということに対して自分には哲学があると書いてありました。それは本当にごく個人的な思いで、事故にあったか何かで息ができなくなって、空気がすごく重要だと感じたという話です。そこで、自分の哲学を作るにあたってはそれでいいんだ、自分にもそういう哲学があれば誰に何を言われても、たとえどんな職業に就こうとも自分のアートは続いていくのだろう、と。だから、それが出てくるまでやろうと思いました。
Q. 國久さんにとっての哲学が“出てくる”まで、どんなことをされたのでしょうか。
見たことのない絵を描くのが一番いいかもしれないと思いました。考えて描くと、今まで好きで見てきたホックニーなど、誰かからの影響があって、自分の絵じゃないと感じていたんです。じゃあどうしたらいいかと考えた時に、世界に私は一人しかいないから、本当に自分の絵を描けば世界にひとつしかない絵ができるはずだから、何も考えないで描こうというのが今の線で弧を描く作品の始まりです。
線の作品に辿りつく直前、ジェリービーンズのような丸いオブジェを描くことから離れられなくなった時期がありました。修士課程の時です。なぜなのか自分でもわからなかったのですが、ある時、ネットで見た写真のサハラ砂漠の影が、そのジェリービーンズに似ていたんです。これは見に行くしかない。ジェリービーンズが意味するものを知りたいと思い、砂漠へ行って絵を描きました。
――サハラ砂漠で絵を?
はい。クレヨンと大きなスケッチブックを持って行き、砂漠で絵を描きました。一番大きな砂丘の向かいにあるホテルに2週間ほど滞在し、毎日朝日が昇ったら砂漠に出かけていって絵を描くんです。答えを出すには、そうするしかないと思いました。
また、博士課程に入る前にゼロになろうと思い、ゼロを発見した国・インドに行きました。「これがわからん」「あれが足りひん」と言って調べたり、いろんなことをやりすぎて、訳が分からなくなってしまったんです。だから、一旦全部忘れてそれでも残るものからもう一回始めようという気持ちでした。インドでは、現地の人に導かれてヨガに出会いました。結局そんなことでゼロにはならないのですが、手探りでわかるものから、作りたいと思うものから作っていって、だんだん形が身体から抜けていって、今のような線の絵ができていきました。
WIT-WITシリーズ制作 風景
神戸の大学のアトリエにて 2014年
Q. 自分の哲学が出てきたのですね。
石に絵を描いている時から、いわゆる「絵画」を作りたいと思っていました。自分が思う「絵画」がどんなものか言葉にすると、美しいとか怖いとかゾワゾワするといった感じ。バーネット・ニューマンや杉本博、ジェームス・タレルといった自分が好きな作家のインスタレーションを見るとどういう気持ちになるかと考えてみると、包まれるような、遠くの世界に誘ってくれるような感じです。自分の絵を見た時に、そういう感覚になったら「あ、絵画ができた」って思うだろうと考えました。 そして、この線の作品を描いた時にそういう感覚になったんです。だから、この作品で無理だったら私には「絵画」は作れないかもしれないと思いました。
WIT-WITシリーズ制作 風景
神戸の大学のアトリエにて 2014年
Q. 線の作品は一見無機質にも見えますが、作品の前に立つと温かさも感じます。
『そらしめ』では、線がクロスするところに錯視効果が発生して、描いていないのに、もわっとしたものが見えてきます。これが、見えないものを見る方法というか、そらし目と一致するなぁと思いました。こんな風に、考えと作り方が結びつくものが作れたらいいなと思っています。
Q. 大学を出られてからは、賞レースへの出品を積極的に行われました。
2017年に『KOBE ART MARCHE』で田村美穂子さんの創治朗(創治朗 -Contemporary Art Gallery-)賞をもらいました。創治朗は伊丹にギャラリーを作ったばかりで、一緒に成長しようという雰囲気の時でした。
Q. 続いて『UNKNOWN ASIA』にも出展されました。
大きい絵を展示したいという願望がありました。私にはブース展示は向いていないと思いましたが、ギャラリーの人と繋がりを持つことができれば、プロとして大きな絵が展示できるかもしれない。出すしかないと思い、私にとって出展料は安くはありませんでしたが、奥行き90センチの半ブースを借りて出展しました。
Q. お金の工面も重要ですね。
マイナスにならないようにしないと活動が続けられません。展示して買ってもらって、プラスマイナスゼロにしたいっていう思いがありました。結果、審査員松尾良一(TEZUKAYAMA GALLERY)賞をもらって、なんとか回収できました。
Q. 『UNKNOWN ASIA』では審査員賞の副賞として、アーティストへのサポートがあります。
松尾さんに、「何がしたいんや」と問われ、「でかいのを展示したい」とお願いしました(笑)。個展を企画してもらい、そこで一番大きい作品が売れました。そのお金で『岡本太郎現代芸術賞』に出品することになりました。バイトを二ヶ月休んでもいけるかなという計算でした。
実は太郎賞には過去に平面部門で出品していました。賞レースには、傾向と対策が必要です。400~500人の応募の中で自分の特徴を最大限に生かし、目立つインスタレーションの計画を出さなければと賞をもらえないと考え、今度は立体部門にして公開制作をすることにしました。 ブースの大きさ的にインスタレーションも綺麗にできそうだということで、三方の壁の上部に作品を飾って、その下で二ヶ月通って制作することにしました。
第22回岡本太郎現代芸術賞展での公開制作風景
川崎市岡本太郎美術館にて
画像提供:川崎市岡本太郎美術館 2019年
第22回岡本太郎現代芸術賞展での公開制作風景
川崎市岡本太郎美術館にて
画像提供:川崎市岡本太郎美術館 2019年
WIT-WITシリーズ制作風景
大阪のアトリエにて 2024年
高松コンテンポラリーアート・アニュアル vol.12 わたしのりんかく展にて公開制作風景
高松市美術館にて
画像提供:高松市美術館 撮影者:田中美句都 2025年