肩書は美術家としています。
僕は基本的に抽象絵画を描いているんですが、絵を描くだけじゃなくて、美術にまつわる"エトセトラ"、つまり、絵を描くことから拡張されるいろんな出来事や体験を作品に反映、取り込みながら活動するので、単に「絵描き」だけではなく、広い意味で「美術家」としています。たとえば、僕の作品は空間に展開したり、物として存在したり、絵を介して人との間でコミュニケーションが生まれたりするので、四角いキャンバスだけに留まらない、もっと広い領域で表現しているので、肩書は美術家としています。
Q. 芸術家ではない?芸術って範囲が広すぎると思うんですよね。音楽や映像、写真など、いろんなメディアコンテンツが全部芸術に含まれるので、僕としてはあくまで「美術」がしっくりくるんです。つまり、アートという大きな枠の中に、美術や音楽、ダンス、舞台なんかがあるけど、その中で僕は特に美術かなって感じ。
Q. アーティストでもない?あくまでも僕の場合は絵を描くことが起点となっているということで、美術家かな。で、英語で言ったらペインターですかね。
でも、アートフェアみたいな場所でパスをもらうと大体「アーティスト」と書かれてますけどね。スタッフ、アーティスト、ギャラリスト、ディレクターみたいに英語で区分けされてて、その中で僕の場合は「アーティスト」と記載されることが多いですかね。
自分で選べるなら「ペインター」。
昔は「美術作家」という言い方もあったけど、現代美術作家という表現は、60年代や70年代のコンテンポラリーアートをやっている人たちの間で付けられていた感じがあります。シンプルに「作家」と呼ばれることが多かった印象ですし、「造形作家」とか「作家」と付ける傾向があるように思います。
アートだと領域が広すぎる感じもあるし、ミュージシャンとかもアーティストって言うし。だから「美術」って「美の術(すべ)」って感じがいい。
やっぱり、ものを作るなら、どんなものでも何かしらの美しさを持ってないとアカンよね。たとえそれが退廃的な美だったり、純粋な美しさだったりしても、必ずどっかに美しさが感じられないと、完成された作品とは言えないと思ってる。そこには技の術が必要になってくる話だし。
あと、アートと言うと結構複合的な要素が強くなっちゃうので、美術としてはもう少し絞られてくる感じですかね。あくまで物理的な表現という点では。
現代アートと言うとメディアアートとか音響、サウンドなんかも含まれるし、最近はインタラクティブなものまでも全部混ざってくるから、実際にフィジカルな部分にこだわるなら、現代美術って感じがしますね。
こういうところって、世代によって感じ方が違うんじゃないかなと。今の美大芸大生の20代はもしかしたら、「絵描き」って言ってる可能性もありますよね。
筆を使わず、重力と絵の具という物質だけで絵を描いています。絵画を構成する要素として、光・動き・奥行きといったイリュージョンの原則があると考えていて、その考えを3次元的な出来事を2次元の絵画で表現しようと試みたんです。そこで、筆を使わずに絵の具を溜めたり飛ばしたりする技法にたどり着きました。最近はさらに目に見えない重力や絵具が流れる「時間」の要素も取り入れて、作品を作っています。
なんでそんなことやってるかっていうと、何かを作るっていうのは、絵に限らず普段は見えないものを見えるようにする行為だと思ってるからなんですよね。
実際、光が当たっていないところをあえて光っているように見せたり、静止しているはずの時間を、あたかも動いて流れているように表現したりしています。こうしたイリュージョン的な部分をどう可視化するかをテーマに、美しいものを作りたいと考えてるんですよね。僕は色の出来事、ふるまいをメインに作品を作っているので、どんな色を使うにしても、いかに美しく、色が綺麗に表現できるかを大事にしてます。行為とかコンセプトだけが先行せずに、絵画としても美しいものを作りたいなと思っています。
Q. 筆を使っていたことは?
筆は好きです。最近発表する作品では筆は使っていないけど、下書きや構想段階では筆を使って色の組み合わせを考えたり、ちょっと描いたりしていますね。
絵を本格的に描き始めた20代の頃は絵を描くっていう事は、自分の頭の中にある見えないイメージをキャンバスに描き出すことが面白いと思って、下絵を描いてキャンバスに当たりを付けながら「どんな絵を描こうかな」って考えながら描き進めています。そしたら、どんなイメージを描くかが決まって、それをある程度キャンバスの上に再現していく作業になるんだけど、そういった段取りで何度も綺麗に整えたり、細かい線を引くとか、決まった手順があるうちに、だんだんそのやり方がつまらなくなってきました。
形が決まるまでワクワクして「よし、こう行くぞ!」って感じで進めていたけど、その後、特に絵が決まってきた後半はどっちかというと、作業に時間がかかるようになってきて、「2時間くらいきれいに塗って、これを3回くらいやれば完成するな」って予測できるようになってくる。そうすると、どうも最初のドキドキ感が薄れて、完成に向けて頑張ってはいるものの、テンションがあんまり上がらなくなってしまう。そこで、整える作業の中で、偶然に絵の具が垂らしたりにじませたりと、エラーを意識的に作品の中に取り入れてみたんですよね。
そこから今の筆を使わないっていうところに繋がっていくんやけど。
Q. 次のシリーズに移るきっかけは?
*ここから場所を屋上に移動しています
構成要素を取り出すことで次の展開が生まれているんです。たとえば、絵の具が混ざり合う偶然性を取り出して、それで次の作品が生まれるみたいに。偶然性を求めて絵の具を飛ばしだして、飛ばすことだけを強調すると、絵の具の点がワンドットになる。そういった点を大きくしたり…作品の中にある構成要素を受け継ぎながら、さらに新しいコンセプトを立てて、シリーズとして次に展開していくかたちで進んでます。
構成要素を取り出すことで次の展開が生まれているんです。たとえば、絵の具が混ざり合う偶然性を取り出して、それで次の作品が生まれるみたいに。偶然性を求めて絵の具を飛ばしだして、飛ばすことだけを強調すると、絵の具の点がワンドットになる。そういった点を大きくしたり…作品の中にある構成要素を受け継ぎながら、さらに新しいコンセプトを立てて、シリーズとして次に展開していくかたちで進んでます。
何かある種の新鮮さを失わないようにっていうことかなと思います。
やっぱり作ってて新鮮さが失われる瞬間ってあるんだよね。たとえば、以前「ルミナスドロッピング」と名付けた、キャンバスを水平に置いて絵の具を溜める作品なんだけど、最初はどうなるかわからなくてドキドキするし、液体の動きなんかが読めない面白さがあったんだ。でも、作家として介入できる部分がすごく少なくて、絵を描いてるというより、何か確実に完成させる物を作っちゃう感じになってしまう。構図も含めて、どっちかというと完成までの流れが決まってしまうから、ドキドキ感はあったけど、介入の余地が少なくなってしまって、何か違うことをやりたくなる感じ。でも時間をあけて制作すると、新たな発見があったり新鮮さが復活してたりもする。
Q. 他の作品やアーティストから影響されることはありますか?
20代の頃にこういう影響をたくさん受けて、参考にしていたことがよくありましたね。それは現代美術からというよりも、古典や江戸時代の琳派の風景や日本画とか、モネのスケッチがすごく良かったり、何か巨匠たちの要素を借りることが多かったんです。でも、最近ではそういった影響はあまりなくなりましたね。
最近は美術作品からの影響というよりは、自然現象からの影響がありますね。例えば、グーグルアースで河口のあたりを見ると、宇宙からみたら砂が混ざり合っていたり、違う色の川が交じり合ってるのがめっちゃ面白いなと思って。そんなふうに俯瞰的な視点で発見する現象って、たとえ画面が何十センチ角程度でも、実は1キロ四方で起きてるということもあって、それを作品に取り入れたいなって思いますね。反対にめっちゃマクロな顕微鏡で見た世界に似てるとか。そうしたものが作品の要素とくっついた時にぐっとくる。そしてそれを拡大解釈して取り入れることがある。
そうしたものはふと気づくのか、それともハンターのように探すのか?
両方かも。街中の抽象・抽象絵画的な風景なものを「街かどabstract」と名付けて採集してることも続けてて、街の一部を切り抜けば抽象絵画に見えるんじゃないかっていう仮定のもと、経年変化や自然現象、雨水が作る流れ、岩が砕けた痕跡、苔なんかも含めて、視点をクローズアップして絵画みたいに見えるものを探してるかも。
※街かどabstractはSNSで公開
今目の前にあるこのタイルも?
めっちゃミニマルな世界。タイルだけを拡大して、たとえば2メートル角ぐらいに描いたら、アルバースの抽象絵画のような感じなるだろうし。笑。60年代のミニマルな抽象絵画を思わせるくらいの雰囲気になりますよね。一つ一つが15センチ角だったからタイルであるというだけで、何かを誇張して拡大したり、違った見方でズレさせたりする。こういう転換は、アートならではですかね。
常に新しい視覚体験をしてほしいと思っていて、絵を通して「見る」という行為を拡張してほしい。最近はテクノロジーの進化ですごくいろんな見え方が増えたけど、根本的には物質として存在するものを見る体験が一番強いと思ってる。だから、みんなにもそこで何か新鮮な知覚体験をしてもらえたら。
それは、“見えないものを感じる楽しさ”だったり、"色の美しさ"や“現象そのものの面白さ”を味わってもらえたらいいな、と。
最近、"見る"ということが軽薄になっている気がします。
めっちゃ、見ることを余儀なくされていますよね。
あと、最近はものすごいスピードで判断して、何も考えずに直感だけで選ぶことを余儀なくされている。だけど、その直感って単なる感覚じゃなくて、その人の経験値からしか生まれないものだから、もし直感を感覚的な事、無意識的と混同しちゃうと、子どもがYouTube見て同じような動画ばかり延々と流してるのと同じになっちゃうよね。
それって、他に面白いものを知らないからなんですよね。外の新しい気づきがあれば、直感であってもいろんな選択肢が持てて、多様な視点を楽しめると思うんですけど、そうじゃないと危険だと思うんです。結局、芋づる式によく似たものばかり追いかけてしまって、世界がどんどん狭くなっていく感じがあるから。
でも、ちゃんとした視覚体験や鑑賞体験って、もっと自分の世界を広げてくれるものだと感じてほしいんですよね。
今回の個展ではデカい絵を展示してるんだけど、デカいって良いよね。(笑)
そういう意味では弁天町のLEDもデカいから良いなって思いましたね。やっぱその感覚を一つ越える要素として、大きさって非常に重要。
デカいと面白いし、身体感覚を飛び越える体験になりやすいと思う。絵画でも、大きさがあると視覚だけじゃなくて、歩きながら眺めたり横から見たりできるからね。一度に全部を見渡せないサイズ感やサイズは小さくとも空間を生かして構成されているものは、手のひらのデバイスとは比べ物にならない圧倒的な体験を生む。
これは、自分の全要素を拡大した世界で、今までだったら100 ccくらいしか使わなかった絵の具を1リットルも使うくらいの大きさなんですよね。密度が上がるというより、要素が大きくなるから面白い気がする。
あと最新シリーズのタイトル「DIVING」は、自分が作品にグッと中に飛び込んでいくような感覚がある。物理現象を取り入れたり、前屈みで描いたりっていうのもあるけど、その体験として(キャンパスに)近づいている感覚。客観的に何かを描いているんじゃなくて、まさに“ダイビング”しているような感覚なんですよ。弁天町の作品もダイビングだし、さっき見てもらった個展もまさにダイビング。
Q. タイトルをつける時の感覚は?
まずは分かりやすい単語で。基本的に個々にタイトルはナンバーアイデンティファイするナンバーでしかないから軸になることをタイトルにすることだけかも
今回は「DIVING(ダイビング)」って言葉を選んだんだけど、それは僕が作品に飛び込む行為だけじゃなく、見る人にも同じような感覚を味わってほしいからなんです。大きな作品って包み込まれる感じがあって、その中に視覚体験として入り込める気がする。だから、見てくれる人にもダイビングのように作品に飛び込んでほしいんです。
今回の弁天町の作品にもダイビングとつけていていますよね?
この作品には、大きさゆえに包まれるような感覚があると思ったんです。面白いのは、キャンバスを元の比率のまま拡大して、LEDモニターと同じ比率に合わせたこと。こうすると、サイズを変えても違和感なく整合性が保てる気がしたんだよね。あと、映像は一人だけ完全にアナログで撮影してみました。
そういう部分も、やっぱり美術家として物質を扱う人間だからこそやりたかったことだなと思う。アニメーションで作るのはなんか意味がないっていうか。
光が当たってテラテラ反射するとか、蛍光灯が映り込むとか、そういう偶然の表情も含めて面白いと思ったんですよね。最初は(自身の)映り込みを消そうと頑張って撮ってたんだけど、あるとき「人が描いてるんだな」って感じる瞬間が逆におもしろくて。そこで今回は、あえて手をこっそり入れてみたり、映像の中で動いてみたりしたんですよ。最後のほうはもう「いいや!」ってなって、自分が重なる感じもそのまま残してみたんですよね。
画面で切り抜かれた映像の中に人が出入りしている様子が、なんとも変な感じで面白かった。
絵を描くのが好きなんやと最近つくづく思います。
子どもの頃から絵を描いたり何かを作ったりしてたけど、最近のほうがもっと楽しい。大学卒業後に意識的に絵を描き始めてから、もう20年以上になるけど、どんどん楽しくなってきて、今が一番。
Q. どの瞬間が楽しい?
最近のハイライトはやっぱり、絵の具を流している瞬間かな。あの何とも言えない緊張感と、“失敗”のリスクがあって、後には引き返せない状況で次の一手を瞬時に判断しなきゃいけない感じが、本当に楽しい。
完成して人前に出した瞬間の嬉しいんだけど、その時点で「もうこれは過去の話」って気持ちがずっとあるんですよね。完成した結果を見せているからこそ、そう感じるんだと思う。
個人的に一番楽しいのは、やっぱり“絵画時間”って呼んでる、絵を描いているとき。ある程度自分のペースで考えながら描いている時間がやっぱり一番面白いですよ。
Q. 常に描いているんですか?
作品を一気にまとめて仕上げるのは、たいていオファーとか外的なきっかけがあるときだけど、スケジュールが空いてるときでも何かしらしてますかね。もちろん濃淡はあるけど、考えたり準備したりも含めて常に淡々と作り続けている感じ。個展みたいな場がないと核になる作品をじっくり作り込むのは難しいけど、常に新しい動きはしてるし、作品もできてます。
これからアトリエの引っ越しがあって、しばらくはしっかり絵を描けないんだけど、夏ごろにはどんな気持ちになってるのかなって楽しみなんですよね。早く描きたいって思ってるのかなぁ。どうでしょうね、きっとウズウズしていると思う。(笑)
個展やアートフェア、万博での壁画制作など)激動の年度末が終わって、物理的な大作は引っ越しもあってしばらく難しいんだけど、色鉛筆とか卓上でできることはやっていきます。環境が変わると見え方や感覚も変わるから、そこから新しい展開が生まれるかもしれないなと思ってます。
今はまさに“4足5足のわらじ”を同時に履いてる感じだけど、やっぱり軸は絵を描くことだと思ってるんです。そこを出発点に、いろんなジャンルや人と人、僕と社会をつなぐメディウムとして絵があれば、世界はもっと広がるんじゃないかなってずっと考えてます。
美術家として。絵の具好きとして。(笑)