弁天町ステーションアート第4弾アーティストの山本太郎。1999年に提唱した、日本の古典絵画と現代の風俗が融合する「ニッポン画」は、さらなる進化を遂げている。特任教授を務める京都美術工芸大学に赴き、これまでの活動や近年の『ネオ浮世絵』シリーズに対する想いなどを聞いた。
京都美術工芸大学東山キャンパス内鴨川七条ギャラリーで撮影された山本太郎(撮影:井川茉代)
Q. 改めて、ニッポン画ついて教えてください。
ひとことで言うと、日本の古典絵画の中に現代的な要素が入っている作品です。三つのルールを決めていて、一つ目は日本の古典絵画の技法で描くこと。二つ目が日本の今の姿を描くこと。三つ目がユーモアを持って描くこと。この三つは1999年にニッポン画を提唱してから大きくは変えていません。
Q. 20代半ばで確固たる自分のスタイルを見つけ、「ニッポン画」という名前も付けていらっしゃったのですね。
見つけられたのはラッキーでした。それと、時代の空気感が影響していたのだと思います。村上隆さんが自分の作品にスーパーフラットという概念をつけて活動し始めたのを僕は少し下の世代として見ていました。村上さんが紆余曲折を経て、最終的にスーパーフラットに落ち着いた流れを雑誌のインタビューなどを通してリアルタイムで目撃できたのが良かったのかもしれません。自己プロデュースというか、やはり自分の活動にも分かりやすい呼び名が必要なんだろうというのは大学生の時から考えていましたね。
Q. 提唱から25年は経ちました。四半世紀の間に変化したところはありますか。
大きな変化は、2023年~2024年頃に『ネオ浮世絵』シリーズを描き出したことです。ニッポン画の中に『ネオ浮世絵』というシリーズがあるという認識です。
Pink×Yellow Great Wave
紙本着色金銀彩 72.7×72.7cm 2024
京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)の芸術館にて豊原国近の浮世絵をウルトラプロジェクト参加学生と調査中の風景 2021
都芸術大学 芸術館秋季特別展山本太郎ウルトラキュレーション企画 「推し世絵 〜ニッポン画×浮世絵プロジェクト〜」 展示風景 2021
Q. 『ネオ浮世絵』は鮮やかな色のシルクスクリーン作品が印象的です。
すでに写真が登場していた明治時代に浮世絵が生き残っていたのには理由がありました。当時の写真は白黒で、シャッタースピードの関係から激しく動いているものは撮れなかった。そうなると、役者の生き生きとしたシーンやポージングをアウトプットするには浮世絵の方がリアリティーがあったんです。それに明治の浮世絵は使える色が増え、とにかく鮮やか。浮世絵はもともと色が綺麗だと感じていたけれど、本物を見ると赤色などもすごく華やかでこんなにカラフルなものがあるんだなと思いました。
そこから、国周さんの精神みたいなものもきちんと受け継ぐのであれば、もう少し大胆なことをしてもいいのではないかと考えるようになり、『推し世絵』からだんだんと『ネオ浮世絵』シリーズに切り替わっていきました。
Q. 『ネオ浮世絵』と共に、『琳派リフレクション』シリーズも誕生しましたね。
元々琳派が好きだったので、浮世絵だけでなく琳派まで広がっていきました。わかりやすくするために一緒にしてしまっていますが、本来は、新しい浮世絵のシリーズが『ネオ浮世絵』で、琳派に影響を受けたシリーズは『琳派リフレクション』と使い分けています。
Flowers Iris Tricolor
紙本銀地着色 53×53cm 2025
Q. 現代の風俗を取り入れるのがニッポン画の特徴です。『ネオ浮世絵』に至るまでの間に、時代の移り変わりによって描く対象に変化はありましたか。
モチーフが変わっていったのは、時代というよりも自分が表現したいものが変わったからかもしれません。ニッポン画を描き始めた当初は、どちらかと言うとユーモアや批評的な要素が強かったのですが、描いていくうちに、古典文学の物語などがモチーフの作品が増えていきました。歳を重ねて、もう少し複雑なことができるんじゃないかと思い始めたからです。それで『ネオ浮世絵』に移る前の段階として、『推し世絵』とは別に、例えばお稽古を再開した能楽の話を題材にした作品を作るという流れがありましたね。
隅田川 桜川
紙本着色燻銀彩
各169×167cm 二曲一双 2010
Q. 最初に能楽のお稽古を始めたのはいつ頃ですか。
学生時代です。大学のクラブ活動と授業でお稽古していました。実はもう一つ合格した大学があったのですが、京都造形芸術大学を選んだのは能舞台のある学校にしようと思ったからです。大学を卒業してからも1~2年はお稽古していました。お稽古から離れた後も、舞台を見に行ったり、先生方との交流は続いていました。
Q. 大学入学前から日本の伝統文化に興味があったのですね。
入り口がノーマルではないのですが(笑)。当時、美大受験は狭き門で二浪ぐらいまでは当たり前の時代で僕は三浪しています。受験がうまくいかないと、だんだん自分がやっていることに対してこれでいいのか?と悩むようになります。とはいえ、毎日デッサンを描かされる。もう嫌になっちゃって、バックパックを背負って逃避行に出てしまったんですよ。
Q. どこへ行ったのですか。
熊本に住んでいたので、自転車で屋久島に行きました。鹿児島まで自転車で行き、鹿児島からフェリーで屋久島に渡りました。山や谷があってしんどいですが、鹿児島までは1日100キロ漕げば 2日で着きます。
沖縄にも行きました。ちょうどTHE BOOMの島唄がヒットするなど沖縄の伝統とJ-POPを融合させた音楽ムーブメントがあった頃でした。旅する中で地元の人たちと喋っていると、みんな普通に三線が弾けたり民謡を歌えたりします。でも、僕は日本の伝統をほとんど知らない。それってどうなんだろうと思いだしました。もっと自分たちの伝統を知らなければいけないという気持ちが芽生えてきたんです。
それで、ずっと油絵だった美大の受験を日本画に切り替えました。家に届いた受験票を見て「あんた、間違ったんじゃないの?」と親が驚いていましたね(笑)。
Q. 能のお稽古を再開されたきっかけを教えてください。
導かれたというか、騙されたと冗談で言っているのですが(笑)。
田茂井親子が三代揃って出演するお祝い尽くしの会を開くということで、京都の能楽師・田茂井廣道先生から「太郎君、扇描いてくれへん?」と依頼をいたんです。扇の下絵ができたので、町中華で打ち合わせをすることになりました。ビールで乾杯したあと、田茂井先生は僕の下絵をパッと見て、「うん、いいね。じゃあこれで。」と仰って、あっという間に打ち合わせが終わりました。あとは中華食うだけか、なんて気軽な気持ちでいたところ「ほんでさ、もう一個お願いがあんねんけど。舞台に立った方がええよな」と言い出して。「いやいや、もう20年もお稽古してないですよ」と抵抗したのですが、田茂井先生は段取り上手。大学時代に習っていた河村信重先生の息子・浩太郎先生や奥様の純子さんにも話が付けてあって、僕もすでに乾杯してビールを二口ぐらい飲んでしまったし、これは引き受けなければいけないという流れになって、舞台出演が決まってしましました(笑)。。
Q. お稽古を再開してみて、いかがですか。
忙しいのと、50歳にもなると新しいことが覚えられないので大変です(笑)。でも、やってみたら結構楽しいですね。それから、いい運動だなと思います。スポーツではありませんが、身体を思った通りに動かさないといけませんし、普段腹式呼吸で大きい声出す機会もなかなかないですよね。大学時代のイメージで「一息でこれぐらい歌えていたはず」と歌いだすのですが、途中で息が続かなくなって。運動会で、はりきりすぎて転んでしまうお父さんみたいになっていました(笑)。最近ようやく少しずつ体力や感覚が戻ってきたかなと思います。
「薫風会・千響会 歌仙会」で「網の段(桜川)」のお仕舞いを舞っている風景
2024年11月23日 真謡会館(京都/北大路)
Pink Mt.Fuji with blue thunder gold back
紙本金地着色 53×53cm 2025
「薫風会・千響会 歌仙会」で「網の段(桜川)」のお仕舞いを舞っている風景
2024年11月23日 真謡会館(京都/北大路)