弁天町ステーションアート第5弾アーティストの稲垣元則。1990年代初頭よりB4サイズのコピー用紙へのドローイングをはじめ、2000年代からは写真や映像による作品制作にも取り組んでいる。また、近年はまちづくりへの関わりを考えるアートプロジェクトユニットを立ち上げ、文化事業の企画運営も行っている。今回は、弁天町ステーションアートのために制作された新作、そしてアートや絵画への想いを大阪府茨木市にあるアトリエで聞いた。
茨木市のアトリエで撮影された稲垣元則(撮影:井川茉代)
Untitled(1st drawing),oil on paper,364×257mm,1922
Q. キャンバスが合わないというのはどういうことでしょうか。
僕が大学に入ったのは1990年。巨大化する絵画や大掛かりなインスタレーションといった勢いのある80年代のムーブメントに対して反動のあった世代だったような気がします。 それまでの絵画に対しての反発と苦手意識がドローイングになって出てきたのかもしれません。当時はそれほど意識していませんでしたが、少し前に80年代をテーマにした展覧会が幾つか開催されているのを見た時に、「あ、やっぱりあかん」と思いました。「あかんわ」と思うと同時に、そう思っていること自体が逆にすごく影響を受けてるいということがわかりました。 また、キャンバスは西洋で作られた絵画になるためのまさに制度のような、例えば文字を描いても絵画になってしまうぐらい強いもの。日本人である自分がそこにアプローチするのはすごく難しいという思いもありました。最近、20年ぶりぐらいにキャンバスに描く機会があったのですが、何かを表現する時に一足飛びで“絵画”になってしまうキャンバス が難しいものだと学生時代から感じていたことを再確認しました。
Q. キャンバスか、コピー用紙か。
一言で言うと“絵画”=キャンバスが大げさだったんですよ。キャンバスは大きな舞台に立ってマイクで原稿を読むような大げさなところがあります。「そこまでして言うことないな」と。僕はそれよりも他愛もない話をしている方がずっといい。大きな舞台で話すキャンバスと他愛もない話をするドローイング。どちらにリアリティあるかというと、こっちのほうがずっと面白いこと描ける!というのがドローイングのスタートです。 「絵って何やろう」と考えた時に、コピー用紙はキャンバスとは全く違っています。 キャンバスは絵画になるためのものだけども、コピー用紙は例えば書類にもメモにもなし、楽譜や手紙にもなったりする。希薄なものですが、オブジェ的な考え方もできる。そこにかれるものこそが“絵”なのではないかと思うんですよね。 僕は、“絵画”と言われているものへの階段を上がるのではなく、“絵”というものへどうやって階段を下りていくかというところでないと、“絵”のことを考えられなくて、ここまでやってきたのだと思います。
Q. ドローイングは毎日行うのですか。
絶対に毎日ではありませんが、日常の作業にしています。
Q. 紙に向かってみて思いつくことを描いていくのですか。
思いつかないんですよね(笑)。
やり始めた20歳のときは楽しくて仕方がなかったのですが、そういうのは一年ももちません(笑)。むしろそこからが自分にとっての本番という感じです。ドローイングが、何もないところから何ができるのか考える場になったというのでしょうか。 大げさな言い方をすると、毎回初めて描くように描きたいんです。もちろん実際はできないのですが、そうありたいと思っています。それが「絵って何やろう」ということに、一番アクセスしやすいのではないかと感じています。 僕はアイデアが溢れていたり、やりたいことが沢山あるわけでは全然ありません。それはなぜかと考えてみると、ドローイング自体が常に自分の器を空っぽにしていく作業だからだと思います。作家や画家であるという意識が薄いのは、何もないように感じる自分の状態から来ているもかもしれません。そのほうが楽しめるというか、だからこそ続けられているのかもしれないですね。
Q. ドローイングをする時間帯は決まっていますか。
空いている時間、朝か晩が多いです。休みの日は長いこと描いていたりもします。ドローイングという行為自体に抽象度が高いので、やっている意味がわからなくなる時もあるんですよ。活動の大きな負担になり、長期間できなくなった時期もありました。「絶対これや」と決めつけることはせず、「これだ」と思うものが出てきたら、それを壊しにかかるので、本当にわからなくなってきます。
Q. わからなくなってもいいのですね。
芸術は“そこに置いとかないといけない”のかなっていう気がします。建設的なところに持っていきがちですが、そうすると他の何かにすり替わったり、消費の対象になったりもします。意味づけがされたり、他者と価値を共有することが明確になると急に窮屈になって、いろんなものから自由でなくなる感じがします。
Q. ついつい答えや目的を求めてしまいがちです。
日本人はおそらく「道」が好きなんですよ。書道や武道などはすべて「道」ですよね。でもなぜか美術は「術」なんです。便器にサインをして美術館に置いたらアートになるというマルセル・デュシャンの『泉』も僕は「術」だと思います。単純にトリッキーなことをするという意味ではなく、そういうことが起こりうる世界だと思うんです。 個人的には「道」に対しての抵抗感があって、常に「術」であってほしいと思います。一線上を歩み、極める「道」。キャンバスに描く絵画に限定すれば「道」という要素が強く、追求が生じます。そうなると、もともとあったいろんな絵のあり様を置いてきぼりにしている感じがするんです。「道」にいる人にしかわからないというところに陥りやすいと感じます。もちろんそこでしか生まれないものもあり、必然的な部分でもあると思うのですが、僕は非常に天邪鬼なので(笑)、だからドローイングに留めておきたいという気持ちがあるのかもしれません。
Q. 作品を作る際に、気を付けたことはありますか。
綺麗にしようとしないことです。通常、綺麗に滑らかになるように補正しがちですが、そうじゃないものをどうやって成立させられるか考えました。 僕が写真を始めた頃は、解像度を追求したり、余分なものを排除することに力を注ぐこともありましたが、今僕らが触れる情報は補正されているのが当たり前。これまではリアリティを信じる事が前提だったけど、AI生成が主流になると何がリアルなのか判断できず、面白がっている自分自身を疑うことが前提になるような状況で、非常にしんどいなと感じています。 傷やシミの方が本当は大事なのに。人にとって自分にとって何が大切かを常に意識しておかなければ、足元をすくわれてしまいます。だから、今回はできるだけ補正しない状態のまま作品にしたいという思いがありました。
Q. どんなふうに作っていったのですか。
絡まっている糸がほどけていく様子をスローモーションで撮影し、速度を調整しながら逆再生しています。スローモーションの映像を逆再生するだけで通常ではありえない動きが生じます。スローモーションを使った作品は以前から作っていましたが、近年は逆再生もよく使うようになり、時間について考える作品が増えてきました。
Q. なぜ時間について考えるようになったのでしょうか。
5年前にドイツで高齢化社会を考えるプロジェクトに参加したことがきっかけです。社会学者や福祉関係の人と一緒に、高齢化だけでなく個人の老いについても考えるプロジェクトでした。明確な解決方法や答えを導き出すというよりは、いろんな人が集まって自分なりの方法で考える場で、僕はテーマを時間に設定しました。
科学的で社会的な時計の時間と、一方でそれとは全く違う、例えば「眠れない夜は長い」「あっという間の夏休み」というような個人的な時間もあります。私たちはその両方の時間の中で人生を過ごしていて、どちらも現実で事実だと思います。そういう時間の中で、自分の人生や老いを見つめていくんだと思うんです。
Q. 撮影する際のこだわりなどはありますか。
僕がずっと繰り返していることのひとつに“観察”があります。観察できる場所を撮影することが多いので、遠くにロケに行くことはあまりなくて、アトリエなど身近なところで作業を行っています。今回の新作もアトリエに三脚を立てて撮影しました。ずっと同じものを見ているというか、ドローイングも含めて「自分が何を行うか」をずっと見ているんです。 滋賀県の琵琶湖のほとりに生えている同じ木を撮影した、10年前と10年後の写真作品があります。長いこと生きていると、こういうのが見られるんだなって思いますよね。時間が経たないと見えないこともあったりするから面白いです。
Untitled (a tree, 2008, 2018)
set of 2 works, inkjet print on paper, 400x500mm (each), 2022
Q. 幼い頃から絵を描くのがお好きだったのですか。
絵を描いたり見たりするのが好きだったり、両親が京都で着物の絵付けの仕事をしていたこともあって身近に感じていましたね。 小学5年生から中学生まで、母の知り合いの画家のところに絵を習いに行っていました。多分あまり知られていない画家だったと思うのですが、幼い頃に自分を信じる生き方に徹している人に出会ったことで、何かしら表現したい、自分の言葉を持ちたいという思いがなんとなくあったと思います。 小学校6年生ぐらいの頃、ピカソ展を見に行って、初めて親にお金を借りて図録を買ってもらいました。その時、それまで見ていた近代絵画などのいわゆる“絵画”のイメージを壊されながら、「わからへんけどすごい!」と思った記憶があります。 展覧会の様子を今でもふわっと憶えているのですが、絵の中を見ていたのではなく、存在を見ていたような気がします。それまで、絵画は額縁の中で完結するものだと思っていました。そこから放たれて人にどんな影響があり、その絵画が存在している場がどんな感じなのかという「絵を壁に掛けたらどうなるか」を初めて感じた瞬間だったように思います。
Q. 制作する際、美しさを意識しますか。
美しいものに出会ったり、発見した時に生じる自分や人のことがすごく大事で、それは人にとっての重要なエネルギーだと思います。僕にとっては作品から美しさを省いて考えることはありません。 現代アートには様々なものがあり、コンセプトが先行する場合もありますが、若い頃「ボイスの作品はまず美しいということが前提にある」というあるキュレーターの言葉に励まされました。ヨーゼフ・ボイスの作品には主義主張があり難解と思いがちですが、僕はボイスの作品を美しいと思ったところから入ったんです。その向こうには何があるのかという興味の入り口を作ってくれたのが、まず美しいということだった。自分の感じ方や見方が、それでいいんだと思わせてくれました。
Q. 現代アートはわからない、難しいと言われがちですが、どんな気持ちで見るのがいいと お考えですか。
自分の作品を作っている時はあまり考えないのですが、他の方の作品を紹介するときは、まずは「わからない」ことに対して、ドキドキしたり、心躍るようになってほしいと思います。わからないことを否定的に考えなくていい。わからないこと自体が、自分の中に大きな余白や空き地のようなものを作ってくれることだと思うんですよ。 あとは、やはりある程度の慣れや積み重ねが必要だと思うので、僕らは作品を繰り返し投げ続けることが大切だと思っています。